2015年3月21日土曜日

朴裕河『帝国の慰安婦』読書会報告(2)

承前

3. 韓国版との異同  一部の参加者からは韓国語版との異同についても指摘があった。例えば韓国語版では「挺身隊」に関する記述を行う際に日本語版ウィキペディアに依拠していること、韓国版では日本の支援者について否定的な記述がなされているが、日本語版では変えられていることなどである。さらに、日本語版では弁明的とも思える加筆が多数あり、それが先に述べたような論旨のつかみにくさに拍車をかけている、という指摘もあった。 4. 「慰安婦」問題の解決に関する著者の主張について  本書は「日韓併合=合法」、「日韓条約で解決済み」という前提に立っているが、もしそういう前提に立つなら国民基金がなぜ必要だったか、さらなる「解決」がなぜいま必要なのかが、理解できなくなってしまうのではないか、との指摘もあった。本書を読んだ日本人がさらなる「謝罪」の必要性を感じるか、疑問である、とも。  また「慰安婦」問題を日韓の文脈に限定して扱うことにより、被害者を分断することになってはいないか、との批判もあった。韓国人元「慰安婦」と連帯したいという意思を示している他国の元「慰安婦」は現に存在しているのであり、彼女たちの「声」もまた無視してはならないはずである、と。  本書の主張の基底にある認識の一つが「日本に対し『法的責任』を問いたくても、その根拠となる『法』自体が存在しない」(319など)というものである。軍や政府の命令があるものについては「当時は合法だったから責任は問えない」とし、命令がないもの(強姦など)については「命令ではない」として、いずれにしても軍、政府は免責されてしまう議論の構造になっているという指摘があった。  また「植民地」という論点を重視しているはずなのに、「米軍慰安婦」など、植民地支配下で行われたわけではない他国(アメリカなど)の軍による性暴力の事例が引き合いに出されている。「帝国」概念もそれにともなって広義にもちいられている(296など)。これは「当時の朝鮮人は日本人だった」という点に朝鮮人「慰安婦」の特殊性を見出し、日本の植民地と占領地とを峻別しようとする本書の主張と矛盾するのではないのか? さらには「他国も似たようなことをしていたのに日本だけが責められている」という右派の主張を後押しすることにはならないだろうか、との意見も出た。  本書の主張のもう一つの特徴として、「業者」の責任を強調していることがある。しかし著者は韓国の「親日派」の責任追及には批判的だったのであり、主張が首尾一貫していないのではないか、という指摘もあった。 5. 先行研究の軽視と事実誤認  連行したのは業者だから日本の責任は問えない、という主張は先行研究や戦後補償裁判に照らして明らかに誤りである。重要な先行研究の幾つかが無視されており、その結果日本軍の責任が過小評価されることになってしまっている。これについては、今後当ブログにおいて具体的に指摘する予定である。  そのほか、事実誤認や資料の誤読に由来する誤った記述(日韓条約交渉過程で日本側が申し出た補償を韓国側が拒否したかのように記述している点、徴兵が国家総動員法で行われたとする記述、日韓会談がサンフランシスコ講和条約に基づいて行われたとする記述、など)も少なくないことが指摘された。 (以上、後半。まとめ:能川 元一)

朴裕河『帝国の慰安婦』読書会報告(1)

15年2月17日に当会が開催した、朴裕河『帝国の慰安婦』についての読書会では、金富子氏(植民地朝鮮ジェンダー研究)による報告に続いて参加者による意見交換が行なわれた。主な意見を主題ごとに再構成し、2回に分けて紹介する。また、当日は『帝国の慰安婦』の内容以外に同書が受容される日本の文脈(金富子氏の報告でも問題にされている)についても参加者の関心が集まった。この点については過去の記事「日本軍「慰安婦」問題の現在と『帝国の慰安婦』」をご参照いただきたい。 1. 方法論上の問題と先行研究の軽視  著者の朴裕河氏は『帝国の慰安婦』において「『朝鮮人慰安婦として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませること」を目指したとしており、自分が紹介する「声」が支援運動によって隠蔽されてきたとしている。日本において『帝国の慰安婦』が好意的に受けいれられている理由の一つもそのような「声」が新鮮なものと思われたからではないかと思われる。しかし、そうだとするなら、著者がそうした「声」を資料から再構成する際の方法の妥当性がきちんと吟味されなければならないはずだ。  まず金富子氏の報告において「植民地期朝鮮や朝鮮人「慰安婦」への事実関係に関する研究の蓄積をふまえず」「膨大な歴史研究の成果を軽視」とされている点については、次のような具体例が指摘された。本書で強調されている「いい日本兵との交流」や「朝鮮人業者の介在」などは日本軍「慰安婦」問題に関わってきた人間にとっては既知のことがらであり、ことさら強調してはこなかったにしても語られてきたことは、これまでに支援者や研究者が刊行した文献をみればわかることである。さらに言えば日本の右派が好んで強調してきたことでもある。こうした事実を無視して自らの「慰安婦」像を提示することは、読者をミスリードするのではないか、と。    次に金富子氏の報告において「不明確で恣意的な根拠・出典、引用のずさんさ」などと指摘されている点については、次のような意見が出た。歴史学ではなく著者の専門である文学研究の基準に照らしても、『帝国の慰安婦』におけるテクストの扱い方は素朴すぎるのではないか。特に、日本人男性である千田夏光が同じく男性である元軍人や「慰安所」業者から聞き取った「慰安婦」の姿、あるいは日本人男性作家が描いた「慰安婦」の姿から「慰安婦の声」を再構成する作業には、これら(日本人)男性のバイアスを考慮に入れることが不可欠であるはずだが、十分な見当がなされているとは思えない、と。    また例えば24ページで言及されている「写真」の解釈についても、中国人が「蔑みの目」で「慰安婦」を見ているという千田夏光氏の推測を無批判に踏襲しているが、写真からは「蔑みの目」であることが自明とはとても思えない、という指摘もあった。  その他、「なでしこアクション」への過大な注目に見るように、日本の右派の動向の把握が不十分かつ間違いがある、90年代の右派の動きを無視している、との指摘もあった。 2. 支援運動・支援者への批判について  本書では「慰安婦」支援運動の日本軍「慰安婦」問題認識について、「慰安婦問題を単に『戦争』の問題として認識した」(211)、「同時代の戦争と連携して『普遍的人権問題』として訴えた」(171)とする。こうした捉え方が「植民地」の問題を隠蔽したというのが本書の中心的な主張であるように思われる。だが、その「隠蔽」についての具体的な論証がないため、植民地支配の歴史を当然視野に入れて日本軍「慰安婦」問題を考えてきた参加者達は困惑せざるを得なかった。  さらに、著者は前記のように支援運動を批判する一方で、「『慰安』というシステムが、根本的には女性の人権に関わる問題」(201)であるとか、「植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由だったのではない」(137、なお53-54、149も参照)などとも主張している。はたして本書から首尾一貫した日本軍「慰安所」制度についての理解を得ることができるのか疑問である。この事例がよく表しているように、本書では頻繁に対立する主張が並列されているので論旨が極めて把握しにくい、どう批判しても「いえ、こうも書いてます」と返せてしまうようになっているのではないか、という指摘もあった。  また、「慰安婦問題を単に『戦争』の問題として認識した」(211)に関しては、批判対象(そのような認識をもっていた者)が誰であるのか、心当たりがないという声もあった。  関連する指摘として、210ページの記述についても疑問が提示された。「日本軍と「人身売買」をリンクさせた運動のやり方は、結果として「業者」の問題を隠蔽することになった」という記述に対しては、人身売買に「業者」が関わっていたことは「慰安婦」支援に関わる人たちの間では当然のこととして認識されており、(責任の軽重という観点から)日本軍・政府の責任追及がまず目指されたにすぎない、という反論があった。また「様々なケースの女性の問題を『性』を媒介にすべて等しく扱ったために、朝鮮人慰安婦の特徴を消去し、欧米の『植民地支配』の影を消してしまった」については、なぜここで欧米の植民地支配という論点が出てくるのか理解に苦しむ、という意見が出た。  次に、被害者の意思、意見にまつわる問題について。著者は「被害者の意見」が一通りではないことを主張し、支援者は自分たちの活動に都合のいい「意見」ばかりをとりあげていると批判する(例えば165)。  これに対しては次のような意見が出た。確かに「被害者の本当の意見・意思とは何か?」は難しい問題であり、支援運動においても苦労・努力が重ねられたところであるが、それを支援運動体批判に利用しているように思える。名乗り出た韓国人「慰安婦」の証言の多くを支援団体が編纂した証言集に依拠していながら、支援団体がそうした「声」を隠蔽したとするのはフェアではないのではないか? と。  日本の支援運動に対する批判としては、「日本を変えるため」に利用した(307など)、「慰安婦問題の『運動』を天皇制批判へとつなげるようになる」(265)というものもある。これに対して、たしかに女性戦犯法廷は天皇を断罪したが、それは「反天皇制」を支援運動の究極の目標にしたということを意味せず、被害者の要求である「謝罪と賠償」を求めた結果であった。むしろ、支援者たちは人手・時間・資金などの制約から好むと好まざるとにかかわらず、「慰安婦問題」としてシングル・イシューで取り組まざるを得なかったのが実情であり、他の運動のために利用したというのは事実に反する、との反論があった。  左派批判の文脈で主張されている「冷戦的思考は基地を存続させる」(314)についても、そもそもここでの「冷戦的思考」が何を意味しているのかも含めて、理解が困難だという意見があった。南北対立が激化すればするほど(米軍)基地の存続は確固たるものになるはずだが、左派が主張しているのは南北対立の緩和だからである。また、日韓蜜月の冷戦時代には「慰安婦」問題は封印されていたことをどう考えているのかもよくわからない、と。  韓国の支援運動に対する批判の中には、支援団体の変化を無視したものが含まれている、という指摘もあった。例えば基地村での「米軍慰安婦」、ヴェトナムでの韓国軍の性暴力の問題には挺対協も取り組んでいるのに無視されており、同じくナビ基金(コンゴ内戦における性暴力被害者を支援する目的で、元「慰安婦」の意思を汲み挺対協が設立した基金)も無視されている、など。

(後半はこちら) (まとめ:能川 元一)

2015年3月20日金曜日

『帝国の慰安婦』における証言者の“水増し”について

 『帝国の慰安婦』の特徴の一つは、1973年に刊行された千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発−−従軍慰安婦』(双葉社。講談社文庫のタイトルは『従軍慰安婦』。以下それぞれ双葉版、文庫版と表記)を高く評価し、また大きく依拠している点にある。例えば朴裕河氏は「そしてこのような千田の視点は、その後に出たどの研究よりも、『慰安婦』の本質を正確に突いたものだった」(25ページ)とし、「千田の本が朝鮮人慰安婦の悲劇に対して贖罪意識を持ちながらも、それなりに慰安婦の全体像を描けたのは、彼がそのような時代的な拘束から自由だったからだろう」(26ページ)としている。「そのような時代的な拘束」とは、彼女によれば、「慰安婦」問題の発生以降「慰安婦」についての発言が「発話者自身が拠って立つ現実政治の姿勢表明になったこと」を指す。このことを踏まえて、次の一節をお読みいただきたい。
 千田の本には一九七〇年代初め、今から四〇年も前に韓国にまで来て見つけた朝鮮人慰安婦たちのインタビューも入っている。つまりこの本には、現在私たちの前にいる元慰安婦たちより四〇歳も若い元慰安婦が登場して、自分の体験を生の声で語っているのである。 (26ページ)
 読者は当然、『“声なき女”八万人の告発−−従軍慰安婦』には複数の元「慰安婦」のインタビューが収録されており、そこでの元「慰安婦」たちの「声」こそ『帝国の慰安婦』が「ひたすら耳を澄ませ」ようとした(10ページ)と称する「声」の原型になっているであろうことを想定されるだろう。あるいは千田が聞き取った元「慰安婦」たちの声が『帝国の慰安婦』の主要なテーゼを支持するものであろう、と。巻末の参考文献で挙げられている千田氏の著作は『“声なき女”八万人の告発−−従軍慰安婦』ただ一つであるので、「千田の本」とはこの本を指すと考えるほかない。

 しかし驚くべきことに、双葉版115ページ、文庫版142ページにはこう書かれているのである。「韓国の或るジャーナリストの紹介で会った彼女は、朝鮮半島で私が会えた、たった一人の元慰安婦と名のる女性であった」、と(強調引用者)。もっとも、千田氏がたった一人の女性しか取材できなかったというわけではない。そのあたりの事情はこう説明されている。
 ところが、そこで知ったのは、この国で慰安婦にされた女性のことは“挺身隊”とよばれ、その体験者たちは、いずれも牡蠣のように口が固いのであった。何人かをやっと探し出してもなかなか語ってくれないのであった。そしてその何人目かに会い終わったとき知ったのは、彼女らがそれを極めて恥にしていること、口を閉じ語りたがらぬのは、その恥辱感のためであるということだった。恥辱、言われてみればその通りであった。誰が慰安婦にさせられた過去の傷痕をとくとくと語る者がいようか。(双葉版101ページ、文庫版126ページ、原文のルビを省略)
 少なくとも複数の元「慰安婦」に会ったことは事実じゃないか、と思われるだろうか? そのすぐ後で、千田氏は二人の韓国人女性にインタビューしているではないか、と思われるだろうか? だがここで考慮しておかねばならないのは、これが「挺身隊=慰安婦」と認識されていた韓国社会での人探しだった、という点である。千田氏が「慰安婦だった人を知りませんか?」と訪ね歩いたとき、労務動員された人を紹介されることは十分あり得た。「挺身隊」と「慰安婦」との混同がなぜ生じたかについての憶測を述べている(62ページ)朴裕河氏は、当然この可能性を想定しなければならなかったはずである。沈黙こそ元「慰安婦」であった証、と考えるのは早計である。「挺身隊=慰安婦」という混同によって労務動員された女性たちが偏見にさらされていたのだとすると、「誤解を解くためにしゃべる」ことより「とにかく注目されるのを避ける」ことを選ぶのは、十分にありうることと言わねばならない。

 双葉版101ページ以降、文庫版126ページ以降で紹介されている二人の韓国人女性が仮に元「慰安婦」だったとしても、さらなる問題がある。その二人が証言しているのは(当然ながら)自らの「慰安婦」体験などではなく、「未婚の若い女性」が「金になる仕事がある」などといった勧誘に応じてついていくのを見た、という目撃談なのである。『帝国の慰安婦』では47ページでその発言が引用されているが、なにしろ「私自身は行かなかったが」と断って話しているのであるから、彼女自身の応募体験として話しているのでないことは明らかである。彼女らが目撃した女性たちが実際に「慰安婦」にされたという確証もない。二人の女性が元「慰安婦」であろうがなかろうが、彼女らの証言は「元慰安婦が登場して、自分の体験を生の声で語っている」と称し得るようなものでないことは明白だろう。さらに言えば、二人の女性のうち一人については「同じような事を語っていた」とされているだけで、「生の声」など紹介されてはいない。

 では残るたった一人の元「慰安婦」の女性は千田氏になにを語ったのだろうか? 二人のやりとりを全文引用してみよう。双葉版115-117ページ、文庫版142-144ページ、原文の傍点を下線に改めた。
「昭和十八年からはじまった挺身隊で行かれたのですか」 「私はその前です。日本の昭和十五年に行きました」 「警官とか面長が誘いに来たのですか」 「面長は来ませんでした」 「すると来たのは警官ですね」 「日本人の男の人も来ました。その人にすすめられたのです」  口数も言葉も少ない女性であった。いかにも喋りたくないのが肌につたわってくるような女性であった。場所はソウル市のはずれ、山坂の上まで小さな家が段々に建て込んでいる難民集落風の所であった。 「出身の村はどちらです?」 「………」
 ここから彼女の沈黙がはじまるのだった。通訳の労をとってくれたジャーナリストがいくら聞いてくれても駄目であった。石になってしまうのだった。だが考えてみると、それは当然であった。今さら村に帰れる体ではない者に、村の名をあかすよう求める方が滑稽なものではなかったか。 「どの辺の戦場に行ったのですか?」 「シナです」  ここでやっと答えてくれたが、中国をシナと呼ぶとき彼女はやはり、過去の中から今も抜け出せずにいるのだろうか。 「中国の、いえ、シナのどこです」 「あちこちです」 「具体的な地名を教えてくれませんか。それと同行した部隊の名前も教えてください」 「………」  またも沈黙であった。 「辛いことがありましたか。もっとも辛いことばかりだったでしょうが……」 「………」 「親切な兵隊も中にはいなかったのですか」 「………」 「帰国したのは何年でしたか」 「………」  私はノートを閉じた。もう質問をやめた。小屋を辞した。坂道を下りながら韓国人ジャーナリストが言うのだった。 「せっかく案内しながら役にたたなかったようですね。すみませんでした。もう少し時間を下さったらまた探してみます」 「いえもう沢山です。人間において沈黙の持つ意味は雄弁より重く大きいことを、しみじみ、悟らされました。彼女はいまなにをしているのでしょうか」 「隣近所の雑用を手伝って生活しているようです」
 かろうじて答えているのも「慰安婦」になった時期、誘いに来た人間、「慰安所」のあった地域だけであり、「慰安所」での生活についてはひとこともしゃべっていない。特に「親切な兵隊も中にはいなかったのですか」という問いに沈黙で応えている点に注目されたい。というのも、「親切な兵隊」についての「記憶」は『帝国の慰安婦』が強調しようとする事柄の一つだからである。

 もちろん千田氏が考えたように、女性の沈黙それ自体を「声」として聞くべきだということはできるだろう。しかしだからといって、「千田の本」では複数の「元慰安婦が登場して、自分の体験を生の声で語っている」と言うことができるかといえば、明らかに否である。数少ない証言も『帝国の慰安婦』のテーゼをむしろ反駁するような内容になっていると言えよう。双葉版101ページ、文庫版126ページにおける女性の目撃証言を就労詐欺による「慰安婦」集めの事例と考えるのであれば(千田氏はそう考えている)、「応募は未婚の若い女性に限られていました」という証言は朴裕河氏の主張に対する反証例ということになるだろう。

 研究者ならばともかく、一般の読者の場合、引用されている文献、参照されている文献にいちいちあたってみることまではしない、というのがふつうではないだろうか。それは市民が専門家に対して寄せる信頼の現れであろうし、また専門家の側はそうした信頼を裏切らないよう努めるはずである。千田氏が聞き取りをした「慰安婦」たちの「生の声」が『帝国の慰安婦』のテーゼを支えているのだ、と信じて同書を読んだ読者はその信頼を裏切られていると言わざるを得ない。

 なお朴裕河氏が千田氏の記述を誤読してありもしない写真を生み出してしまった事例についてはこちらの記事を、また(恐らくは)原史料にきちんと当たらなかったがゆえに「慰安婦」の年齢について大きく読者をミスリードする記述をしている点についてはこちらの記事を、それぞれ参照されたい。

(文責:能川 元一)

2015年3月8日日曜日

公開ワークショップ“「帝国の慰安婦」という問いの射程”について

 2015年2月22日、京都市の立命館大学において公開ワークショップ「『日韓の境界を越えて』〜帝国日本への対し方〜」の第2回として、「帝国の慰安婦」という問いの射程が行われ、本記事の筆者も参加してきた。ワークショップの内容については主催者により活字化される可能性もあるので、それを待って論評することにしたい。ここでは『帝国の慰安婦』という書物の受容のされ方に関わると思われるエピソードを紹介したい。

 冒頭のあいさつで司会者の西成彦氏は次のように発言された(私が記憶とメモに基づいて再構成したもの、以下同じ)。
(……)いかなる書物であっても純粋な知的好奇心と一定の礼節を持って受け止めるべきで、その価値をとやかく値踏みする暇があったら、むしろその書物を踏み台にして各自が何を考え、いかなる次の一手を繰り出していくかを追求していくのが読者の務めだと思っている。
まず深刻な性暴力の被害者がカミングアウトして国家犯罪を告発しているという問題を扱った書物について、「純粋な知的好奇心」でうけとめるのが唯一のあるべき読み方なのか? という疑問が浮かぶ。それはむしろ著者である朴裕河氏にとっても不本意なことなのではないだろうか? 西氏の意図がどのようなものであったにせよ、次のことを念のため確認しておきたい。「政治的」であることを避けることができない日本軍「慰安婦」問題を扱った文献について、非政治的であろうとすることもまた、極めて政治的な振る舞いである、と。

 また、なるほど研究者の共同体においては、各研究者が他の研究者の業績を「踏み台」としてさらなる達成を目指すものである。しかし個々の研究成果が一般市民にも開かれているものである以上、ある「書物」が「踏み台」とするに値するものか否かを吟味するのもまた、研究者の務めではないのだろうか? そうした作業を「とやかく値踏み」と否定的に評することであらかじめ封じるのは、開かれた議論のあり方として妥当だとは思えなかった。

 さらに、質疑応答の時間には上野千鶴子氏が『帝国の慰安婦』への好意的評価に対する批判について「あれかこれか、の二者択一に押しやるような言論」だと発言した。しかしながら、『帝国の慰安婦』に対する具体的な批判に向き合うことなくそれを「二者択一に押しやるような言論」として切り捨てることは、それこそ『帝国の慰安婦』を支持するか・しないかの二者択一に押しやることにはならないのだろうか? 日本語版の『帝国の慰安婦』が刊行されてからまだ3ヶ月もたっていない時点で、あたかも同書への批判的な検討を否定するかのような発言が司会者や登壇者からなされたことについては、強い違和感を感じざるを得なかった。

(文責:能川元一)

2015年3月6日金曜日

マイケル・ヨン氏とスポンサーの存在

2月24日、日比谷コンベンションホールにてフリーランスのアメリカ人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏による、「IWG報告会セミナー」と題された講演会が行われた。(産経新聞は「全米で知られたフリーのジャーナリスト」と書くが、ヨン氏はアメリカでは「ジャーナリスト」とは名乗らず、「ライター」と名乗っていると講演会で発言していた。)「慰安婦」問題に関して、産経新聞幸福の科学の英文媒体にヨン氏のインタビュー記事が掲載されるなど、「テキサス親父」ことトニー・マラーノ氏に続いて、ヨン氏は最近、その発言が日本の右派論壇において重宝されているアメリカ人である。

その講演会を筆者は聞きに行ったのだが、本題のIWG報告書の解説にはいる前に、ヨン氏が前置きとして自身が「慰安婦」問題に関わりをもつようになったきっかけについて語っていたのが興味深かった。ヨン氏は「慰安婦」問題に関して、この問題について以前から詳しかったとか、長年、調査研究を積み重ねてきた人物ではないという。

そして、ヨン氏はさらっと、自身に「慰安婦」問題の調査を依頼し、そのための資金を用意し、ヨン氏の住むタイに飛んで3日間のブリーフィングまで行った人たちの存在に言及したのだった。

ヨン氏の講演会の動画はYoutubeにあがっているが、調査依頼者および資金についての箇所は以下の動画の1540~あたりからの部分である。動画に基づき、オリジナルの英語を起こし、その翻訳を以下に添える。(講演会では通訳もはいっていたが、この部分に関しては大意はとれているものの、細かな誤訳や翻訳の抜けもあるので、通訳の話した日本語ではなく、ヨン氏の英語を筆者が訳した文章を添える。)




15:40~
So, somewhere along the way, people recognized my work, who were also working on the comfort women issue. And they realized that strategic interests like this might interest me...strategic issues like this might interest me. So one person who had been researching this for quite a long time had arranged for funding, for a funder, and they flew to Thailand to brief me, so they briefed me for three days on the comfort women issue. Actually at first I did not want to meet with them because I thought that the comfort women issue was very small, and something from the past, and I didn’t understand why anybody was even paying attention to it. So I refused to meet with them at first, actually. And its finally after a long Skype call I said, you know there might be something to this, and they were sending me documents to read, and finally, that was when I agreed to meet with them on this issue. After the meetings in Bangkok I said, well I will look into this, because I don’t know.  I didn’t know who to believe, actually, the comfort women issue obviously has been going on for a long time, and it’s complex. But I did agree to look at it, so I did look at it, and researched on my own. …

そうこうしていたら、慰安婦問題について取り組んできた人々が私の仕事に気づきました。彼らは、私が、こうした戦略的な問題に興味を持つのではないかと考えたのです。そして、この問題を長い間リサーチしてきたある方が、資金とスポンサーを用意した上で、私にブリーフィングを行うためにタイまでやってきたのでした。そして彼らは、慰安婦問題について私に3日間のブリーフィングを行ったのです。実は、私は最初はこの人たちに会いたくありませんでした。なぜなら、私は慰安婦問題というのはとても小さなことであり、過去のことだと思っていたからです。どうしてこの問題に取り組む人たちがいるのか、ということすら理解できませんでした。ですから、私は実は最初は会うことを拒んだのです。でも、最終的には長いSkype電話での後で、私は「もしかしたらこの問題には何かあるかもしれない」と言いました。そして彼らは私に書類を送ってきました。こうして最終的に私は彼らと会うことに同意したのです。バンコクでの会議の後、私は「よくわからないから、調べてみる」と言いました。実は誰の言うことを信じてよいのかわからなかったし、実際、慰安婦問題は明らかにずっと長い間続いてきた問題であり、複雑です。でも私は調べることに同意して、自分で調査をしました。

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ヨン氏は講演会の中で、依頼した人物や団体が誰かということには言及しなかった。だが、”they”といった複数形をヨン氏が使っていることから、たまたまヨン氏に一人の個人が連絡したというようなケースではないと思われる。

このヨン氏への依頼者や スポンサーはいったい誰なのか、あるいはどのような団体なのだろうか。

(文責:山口智美)

2015年3月1日日曜日

右派運動と「慰安婦」問題バッシングの歴史

※人名については敬称略
1991 金学順、名乗り出る(8月)。植村隆記事、朝日新聞に掲載(8月、12月)
1992 宮沢首相、韓国で「慰安婦」問題についてお詫びと反省(1月)
西岡力「『慰安婦問題』とは何だったのか」(『文藝春秋』)、「慰安婦と挺身隊と」(『正論』)掲載(3月)
1993 河野談話発表(8月)
1995 「女性のためのアジア平和国民基金」呼びかけ文発表(7月)
村山談話発表(8月)
北京世界女性会議開催(9月)
「自由主義史観研究会」設立
1996 クマラスワミ報告書(1月)
1997 中学歴史教科書7社全社に「慰安婦」記述登場
「新しい歴史教科書をつくる会」設立総会(1月)
「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」設立(2月)
「日本会議」設立(5月)
小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言〈4〉』で「慰安婦」問題などを扱う(12月)
1998 小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(6月)
マクドゥーガル報告書(8月)
1999 石原慎太郎都知事誕生(4月)
秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)出版(6月)
2000 女性国際戦犯法廷判決(12月)
2001 女性国際戦犯法廷についてのNHK番組が改ざんされ放送(いわゆる「NHK問題」、1月)
松井やよりの講演会と討論集会(7月)を妨害したとして、右派運動家2名が逮捕(11月)
2004 「チャンネル桜」設立(4月)
2005 朝日新聞、安倍晋三、中川昭一両議員がNHKの女性戦犯法廷についての番組改編に圧力と報じる(1月)
2006 第一次安倍政権(9月。2007年8月まで)
八木秀次ら、「日本教育再生機構」設立(10月)
「主権回復を目指す会」設立(7月)、「在日特権を許さない市民の会」設立決定(12月)
この年から使われる中学教科書から「慰安婦」記述が一斉に消える
2007 安倍首相、「慰安婦」への強制性否定する発言(3月)
The Facts広告、ワシントンポストに掲載(6月)
アメリカ下院、対日「慰安婦」謝罪要求決議採択(6月)
西岡力『よくわかる慰安婦問題』(草思社)出版(6月)
「河野談話の白紙撤回を求める会」(西村修平代表)、署名を官邸に提出(7月)
「チーム関西」による大阪・梅田での「水曜デモ」抗議活動開始(11月頃から)
2008 宝塚市「慰安婦」意見書採択(3月)、この後地方議会等での意見書や決議が続く
2009 「主権回復をめざす会」、「在特会」など、三鷹「慰安婦」パネル展抗議(8月)
「そよ風」設立(7月)、在特会「慰安婦フェスティバル2009」開催(8月)
2010 「頑張れ日本!全国行動委員会」設立(2月)
「愛国女性のつどい 花時計」設立(4月)
ニュージャージー州パリセイズパーク市に「慰安婦」碑設立(10月)
2011 「テキサス親父」(トニー・マラーノ)初来日(5月。以降、毎年来日)
「主権回復を目指す会」、アンチ「水曜デモ」行動を開始(11月)
「なでしこアクション」活動開始(3月)、「水曜デモ1000回連帯アクション」への抗議行動(12月)
ソウル市の日本大使館前に「慰安婦」像設置(12月)
2012 ニコン「慰安婦」写真展事件(5月〜)
「なでしこアクション」主催「慰安婦問題を糺し毅然とした国の対応を求める集会」(11月、衆議院議員会館)
第二次安倍政権(12月〜)
2013 橋下大阪市長「慰安婦」発言が問題に(5月)、外国人特派員協会での橋下会見に同席した桜内文城衆院議員(当時)が「吉見さんという方の本」を「捏造」と発言。吉見義明が提訴(7月)
カリフォルニア州グレンデール市「慰安婦」像建設(7月)
「『慰安婦の真実』国民運動」発足(9月)。右派の「慰安婦」パネル展、この頃から盛んに
2014 NHK籾井新会長記者会見での発言が問題に(1月)
仏アングレーム国際漫画祭、「強制連行はなかった」と主張するマンガ出展の「論破プロジェクト」ブース撤去騒動(1月〜)
朝日新聞記者(当時)の植村隆批判記事、『週刊文春』に掲載(1月)以降、植村へのバッシングが悪化
「歴史の真実を求める世界連合会」(GAHT)、グレンデール「慰安婦」像の撤去要求の訴訟提起(2月)
安倍政権による河野談話作成過程の検証結果発表(6月)
国連自由権規約委員会に右派が調査団派遣(7月)
朝日新聞「慰安婦」報道の検証結果発表(8月)、朝日バッシング起きる
「新しい歴史教科書をつくる会」、下村博文文科大臣に、歴史教科書の「従軍慰安婦」「強制連行」に関する全ての記述を削除する訂正指導を各教科書発行会社に対して行うよう要請(9月)
宝塚市「慰安婦」問題意見書撤回(10月)、その後同様の動きが続く
「朝日新聞を糺す国民会議」設立(10月)
読売新聞、英字新聞での「慰安婦」報道をめぐりおわび(11月)
朝日新聞慰安婦報道検証・第三委員会報告書(12月)
「なでしこアクション」、「慰安婦問題に終止符を!日本の未来のために立ち上がる女性たち」集会開催 於東京、サンフランシスコ、ロスアンゼルス(12月)
2015 植村隆(元朝日新聞記者)提訴(東京地裁1月・札幌地裁2月)
計3件の朝日新聞社への訴訟が起こされる(1月、2月)
米マグロウヒル社発行の教科書の「慰安婦」に関する記述をめぐって、外務省が修正を求めたと報道(1月)
数研出版、高校教科書から「従軍慰安婦」「強制連行」の削除を申請し、文科省が認めたと報道(1月)
日本政府の米教科書への圧力を批判し、米歴史学者19人が共同声明を発表(2月)
NHK籾井会長、記者会見での発言が再度問題に(2月)

(年表作成:斉藤正美・能川元一・山口智美[五十音順]