2015年2月27日金曜日

ソウル地裁『帝国の慰安婦』書籍の出版等禁止及び接近禁止の仮処分決定

 ソウル東部地方裁判所が2月17日、『帝国の慰安婦』が被害者の名誉を毀損しているとして出版停止を求めた裁判において、「著書内容のうち34カ所を削除しなければ出版、販売、配布、広告などをできない」と一部訴えを認めた仮処分決定文が、「東アジアの永遠平和のために」とのブログサイトにて、原告の申請目録などを除いた、ほぼ全文が掲載されております。



決定の判断について

 朴裕河氏の支持者たちは「禁書処分」、「言論弾圧」などと主張しておりますが、仮処分決定文を読むと、原告が削除を要求していた53箇所のうち、被害者の名誉毀損に関わる34箇所のみに限定されています。また「慰安婦」被害者への接近禁止の請求を却下するなど、原告の主張の一部しか認めていません。決定については原告側、被告側それぞれに主張があるでしょうが、決して「表現の自由」をむやみに制限した決定ではありません。
 決定文では、「慰安婦」に関する研究の蓄積を無視した同書内の記述に対しても、「具体的事実の指摘というより、法律の専門家ではない被告・朴裕河の単純な意見表明として憲法上保障される学問の自由や表現の自由の保護領域内にあると見られ、このような見解について裁判所が事前的にその表現を禁止するよりも、自由な議論と批判などを通じて市民社会が自らの問題を提起し、これを健全に解消することが好ましく、韓国社会の市民意識は十分にこれらの解決が可能なほど成熟したものと見られる」と判示しています。

被告・朴裕河氏側の主張について

朴祐河氏側の「被告らの主張要旨」には、「たとえこの事件の書籍の内容が原告の名誉を毀損したとしても、被告は、日本軍慰安婦問題の解決策を提示するために、この事件の書籍を執筆・出版したのであり、その内容が事実であり、その目的はもっぱら公共の利益のために該当し違法性はない」と記されております。

「慰安婦」被害者である「原告の名誉を毀損したとしても」、優先される「日本軍慰安婦問題の解決策」、「公共の利益」のためだとの被告(朴裕河氏擁護)側の主張を読むと、朴裕河氏が目指す「解決策」には、被害者の名誉回復が含まれていないのかと考えさせられます。

2015年2月25日水曜日

金富子氏報告「朴裕河『帝国の慰安婦』への疑問」

15年2月17日に当会が開催した、朴裕河『帝国の慰安婦』についての読書会は、金富子氏(植民地朝鮮ジェンダー研究)による報告(「朴裕河『帝国の慰安婦』への疑問」)から始まった。

 同氏の報告は、朴裕河氏が、朝鮮人「慰安婦」は「帝国の慰安婦」であり、朝鮮人「慰安婦」を日本人「慰安婦」に限りなく近い存在として描いていることに疑問を呈した。朴氏は、植民地期朝鮮や朝鮮人「慰安婦」への事実関係に関する研究の蓄積をふまえずに、多くの事実誤認をしていることを指摘した。以下はその例である。

 一点目は、朴氏の記述には、植民地朝鮮での「挺身隊」に関する歴史的事実への混同や誤解があるにもかかわらず、「挺身隊と慰安婦の混同」を「植民地の<嘘>」等と決めつけたことである。二点目は、被害女性の証言等を恣意的に選別することで朝鮮人「慰安婦」の大部分が「少女」であった事実を否定し、さらに「性奴隷」を記憶の問題にすり替えることで「性奴隷」にされた実態を否定する論法であることである。最大の問題は、日本軍より朝鮮人業者の責任が重いとしたことであり、「慰安婦」制度を立案・管理・統制した日本軍の責任を軽視・解除しようとしたことだ、とした。兵士との恋愛や同志的な関係、多様な「慰安婦」像を強調してリベラルとフェミニズムを装うが、日本軍の責任と植民地支配責任を否定する歴史修正主義的な「慰安婦」言説であると述べた。

 また、朴の著作には方法論的に大きな限界があるとし、研究史の最初期に位置する千田夏光(1973)や森崎和江(1976)などに依拠しているが、1990年代以降に被害女性の証言・公文書の発掘等によって飛躍的に進んだ「慰安婦」制度に関する研究をはじめとする膨大な歴史研究の成果を軽視したものである。事実とフィクションを混同する手法は、朴氏が「文学研究者だから」では言い訳できないレベルであるとも述べた。さらに、同書には、事実関係の誤解・誤用・憶測、不明確で恣意的な根拠・出典、引用のずさんさ(根拠なき「〜考えるべきだ」「〜はずだ」「違いない」の乱発)などがあることも指摘した。

 にもかかわらず、この著作が日本のリベラル系、フェミニズム系の知識人、メディアに絶賛されるのは、植民地朝鮮の実相や朝鮮人「慰安婦」、植民地主義に対する理解の浅さ、思想性に根源的課題があることを問題視した。つまり、朴氏の著作は、「朝鮮人は日本人」であり対等だった、植民地支配は「合法・有効論」だった、という日本で有力な植民地支配認識から導きだされた「帝国の慰安婦」説であるが、これは実際にあった民族の支配/被支配の関係性(植民地主義)をみえなくさせる効果がある。さらに本書は、韓国側が日本軍の責任、植民地支配責任を問えなくする構造をつくっているため、これに向き合いたくない(主に)日本側にとって都合のよい言説になっている、とまとめた。

(まとめ:斉藤正美)


2015年2月18日水曜日

日本軍「慰安婦」問題の現在と『帝国の慰安婦』

なぜ、こういうことが起こるのだろうか? その理由を推測するに、朴裕河の言説が日本のリベラル派の秘められた欲求にぴたりと合致するからであろう。
徐京植、「和解という名の暴力−−朴裕河『和解のために』批判」
(『植民地主義の暴力』、高文研、2010年)

 まるでデジャ・ビュを見ているように、かつてと同じ事態が繰り返されている。右派が声高に「慰安所」制度に対する日本軍・日本政府の責任を否認し被害者への二次加害を繰り広げている最中に、一般には「右派」とは認識されていないメディア、言論人が一冊の本を激賞している。

「朴がやろうとしたのは、慰安婦たちひとりひとりの、様々な、異なった声に耳をかたむけることだった。そこで、朴が聞きとった物語は、わたしたちがいままで聞いたことがないものだったのだ。」
(高橋源一郎、『朝日新聞』、14年11月27日 
「この本は、「慰安婦」を論じたあらゆるものの中で、もっとも優れた、かつ、もっとも深刻な内容のものです。これから、「慰安婦」について書こうとするなら、朴さんのこの本を無視することは不可能でしょう。そして、ぼくの知る限り、この本だけが、絶望的に見える日韓の和解の可能性を示唆しています。」
(高橋源一郎、Twitter、14年11月27日

「苦境の中で、複雑な問題に極力公平に向き合おうとした努力は特筆に値する。この問題提起に、日本側がどう応えていくかが問われている。」
(杉田敦、『朝日新聞』、14年12月7日

「『和解のために−−教科書・慰安婦・靖国・独島』(2006年)で大佛次郎論壇賞を受賞した韓国・世宗大学校教授が、慰安婦たちのさまざまに異なる声に耳を傾けながら、対立する左右の議論の問題点を考えた。」
(岸俊光、『毎日新聞』、14年12月28日 
 慰安婦問題で光ったのは、朴裕河(パクユハ)の『帝国の慰安婦』(日本語版)だった。植民地の故郷を離れ、日本女性の代替品として戦場に置かれた女性たちの重く多様な現実を考察した。  慰安婦は物理的に強制されたのか/それとも自由意思だったのか、君は愛国者か/非愛国者か――。そんな二分法の議論と一線を画していくための道を、「帝国」という概念を導入することで朴は示した。植民地出身の慰安婦は、帝国支配の被害者であると同時に帝国への協力者としての性格も帯びるという、複雑な立場に置かれていたのだ。 (塩倉裕、『朝日新聞』、14年12月30日 
「この問題について避けて通れない書物の日本語版がついに出た。朴裕河(パクユハ)さんの「帝国の慰安婦」である。韓国では元「慰安婦」の名誉を傷つけたとして出版差し止め訴訟が起きた論争的な書物である。前著「和解のために 教科書・慰安婦・靖国・独島」(平凡社)にわたしは「あえて火中の栗(くり)を拾う」と題した解説を書いたが、本書もそのとおりの本、それより自ら「火中に入る」ごとき本である。書き手も読み手も火傷(やけど)を負わずにはいない。」
(上野千鶴子、『毎日新聞』、15年1月20日

朴裕河『帝国の慰安婦』を丁寧に読了した。これは凄い本である。なかでも韓国の右派、日本の左派への批判は渾身のものである(正しくは右派左派と呼ぶべきではないがとりあえずこう書く)。この本で何か新しい次元が開かれるのかもしれない。私は支持する。
(森岡正博、Twitter、15年2月14日
 かつて『和解のために』に向けられた批判に著者がどう応えているのか(あるいは応えていないのか)の検討すらなしに本書を賞賛する論者たちには驚くほかないが、右派のメディアや論者が概ね本書を無視するか否定的に評価する(「著者の歴史観は古く、論理が混乱している」とする池田信夫など)状況では、本書が「中立的」なものとして受け容れられてゆく可能性は高い。

 『帝国の慰安婦』と、やはり昨年出版された『慰安婦問題』(熊谷奈緒子、ちくま新書)、『日韓歴史認識問題とは何か』(木村幹、ミネルヴァ書房)の3冊に共通しているのは、この問題の歴史において日本の右派が果たした役割を非常に過小評価していることである。そのため、これら3冊は「歴史認識問題がこじれたのは韓国のせいではないのか」という、この社会のマジョリティの間で広く共有されていると思しき感覚を“裏づけてくれる”ものとなっている。

 敗戦から70年、日韓国交正常化から50年となる今年、『朝日』による一部報道撤回により「慰安婦の『強制連行の事実は否定され、性的虐待も否定された」(自民党・国際情報検討委員会の決議)とするような極右路線とは別に、より「現実的」な−−なによりもアメリカの反対を招かないような−−かたちでこの問題に“解決”をもたらそうとする試みが、この社会の支配者層によってなされるであろうことは間違いないだろう。表面化した幾つかの事実の断片から浮かび上がってくるのは、アジア女性基金を肯定的に再評価させる路線であり、そのためにアジア女性基金を批判してきた支援者たちをスケープゴートにすることが目論まれているのではないだろうか。このような路線への支持を取りつけるうえで『帝国の慰安婦』は最も強力な手段となるだろう。

 本書が抱える問題点についてなるべく早く、またできる限り広く情報発信してゆくことが不可欠だと考える所以である。


(文責:能川元一)

2015年2月12日木曜日

熊谷奈緒子『慰安婦問題』についての補足:「冷静な議論」とは?

本稿は「読書会のまとめ」に対する能川元一による補足です。


 本書の帯には「冷静な議論のためにいま何が必要か?」という、またカバー見返しにも「冷静な議論のための視点を提供する」との謳い文句が記されている。この文言そのものは著者に帰責できるものではないだろうが、本書がどのような文脈で受容されることを目指して企画されたのかをうかがうことはできる。すなわち、「慰安婦」問題を巡っては冷静でない議論が行われているという認識を前提とした文脈、である。すべてのアクターが「冷静」に議論しているという認識のもとでは「冷静な議論のために……」は謳い文句たり得ないからである。では、「冷静でない」議論をしているのは誰なのだろうか? これについては、著者自身が(少なくともそうしたアクターの一部を)明らかにしている。2014年12月30日の『朝日新聞』でのインタビューにおいて熊谷氏は「法的補償を求める韓国や日本の一部団体は『道義』という言葉を「責任逃れ」と拒否するかもしれないが、法も超越した倫理観としての道義と、それに基づくお詫びの姿勢を冷静に見てほしい」(下線は引用者)と語っているからだ。

 まず頭に浮かぶのは、熊谷氏がいったいどのようにして「韓国や日本の一部団体」のメンバーの(あるいは「冷静でない」議論をしているその他のアクターの)心理状態を知り得たのか、という疑問である。仮に著者の観点から見たとき「韓国や日本の一部団体」の主張に誤りなり偏りなりがあるとして、それが「冷静さ」の欠如に由来すると判断した根拠は何なのだろうか? 本書にはその根拠らしきものは見いだすことができない。見解を異にする者の主張に対して具体的な根拠なしに「冷静でない」というレッテルを貼るのが建設的な議論の進め方であるとは思えない。

 しかし本書が「フェミニズム」や「ポストコロニアリズム」の視点を重視していると謳っている[i] 点をふまえるなら、ここには議論が建設的であるか否かを超える問題が孕まれていると考えることもできる。周知の通り、「冷静・理性的/感情的・非理性的」という対比は女性差別と植民地支配を正当化するために常に持ち出されてきたものだからである。「韓国人=感情的」というステレオタイプが今日でもなお根強く生き残っていることは、書店に並ぶ「嫌韓」本やインターネット上のヘイトスピーチを観察すれば容易に知ることができよう。元「慰安婦」を支援する運動の中心を担ってきたのは日韓いずれでも女性たちであったし、日本の「一部団体」には在日コリアンが多数参加している。著者の言うところの「韓国や日本の一部団体」を構成するのは、「感情的、理性的でない」というステレオタイプと戦うことを強いられてきた人々なのである。そうした人々の主張に対して、具体的な根拠なしに「冷静でない」とレッテル張りをすることは、著者が重視しているはずの「フェミニズム」や「ポストコロニアリズム」といった視点への裏切りではないのだろうか?

 本書の記述を一つ、具体的に取り上げてみよう。20ページには「法の支配を貫く日本政府は、請求権問題は解決済みで紛争は存在しないとの立場をとり」とある。ここでは「解決済み」という認識の是非は問うまい。問題は日本政府のこの立場を著者が「法の支配」によって説明しているところにある。「解決済み」という立場をとるにしても、新たな立法措置による被害者への補償は「義務付けられてない」だけであって禁じられているわけではないのだから、仮に日本政府が法的手続きを踏んで補償を行ったとしても「法の支配」に反するところはまったくないはずである。逆に、2011年8月30日の憲法裁判所の判決[ii] をうけて韓国政府(当時は李明博政権)がそれまでの方針を転換したことはなぜ「法の支配を貫く」と評されないのだろうか? 大統領が憲法裁判所の判決に不服だからといってそれを無視するならそれこそ「法の支配」が踏みにじられたことになるではないか。


 “近代的な法意識の欠如”もまた、宗主国が植民地支配を正当化するために用いた「未開人」の表象の一要素であったことを想起せざるを得ない。「フェミニズム」や「ポストコロニアリズム」の視点を重視するというのであれば、差別的なステレオタイプを再生産しかねないような議論の進め方には、もう少し慎重な姿勢が求められよう。




[i] カバー見返しには「民族主義、ポストコロニアリズム、フェミニズムの三つを重ね合わせる多面的な理解の必要性を訴え」とある。ただし「フェミニズム」と比べて「ポストコロニアリズム」という語の方は、本文中ではほとんど用いられていない。もっとも、日本軍「慰安婦」問題の「主要なポイント」の一つとして「日本の戦争植民地責任」が挙げられてはいる(42ページ)。
[ii] この判決は本書では「一九六五年の日韓基本条約及び請求権・経済協力協定において個人の請求権の存否について日韓の間で解釈に対立があるにもかかわらず、それを解決するための手続きを履行していないことは韓国政府の不作為であり、それは違憲であると判断した」と紹介されている(19ページ)。

2015年2月5日木曜日

「植村応援隊」発足

 去る1月9日に『週刊文春』その他を提訴し、日本軍「慰安婦」報道に対するバッシングと戦う姿勢を明らかにされました元朝日新聞記者の植村隆氏(現北星学園大学非常勤講師)を支援するための団体が新たに結成されました。趣旨説明と参加呼びかけのご案内(PDFファイル)をこちらからご覧いただけます。活動内容、参加方法及び連絡先、カンパ用口座番号等の記載があります。

提訴と前後して、植村氏は下記の通り手記を発表しておられますので、そちらもご参照ください。

・「慰安婦問題『捏造記者』と呼ばれて 元朝日新聞記者 植村 隆 売国報道に反論する」、『文藝春秋』、2015年新年特大号
・「私は闘う──不当なバッシングには屈しない」、『世界』(岩波書店)、2015年2月号
・「小さな大学の大きな決断──脅迫には負けないことを表明した北星学園大学」、『創』(創出版)、2015年緊急増刊号

(文責:能川 元一)