2015年12月14日月曜日

日本フェミニストによる相対主義の暴力

2015年11月30日、当会では上野千鶴子氏による「慰安婦」論について李杏理が報告した(「日本フェミニストによる相対主義の暴力」)。
 「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」(2015年11月26日)には、上野千鶴子、加納実紀代、加藤千香子、千田有紀、竹内栄美子ら(敬称略;以下同様)フェミニストも賛同人に名を連ねている。  この声明で言及されている朴裕河『帝国の慰安婦』の問題点は、すでに当会で議論してきた。  とくに上野千鶴子は、以前から朴裕河『和解のために』(平凡社、2006年)あとがきや新聞での評論を通じて朴裕河の議論を積極的に評価してきた。  なぜ、日本人フェミニストが朴裕河を擁護するのか。フェミニストによる相対主義・脱ナショナリズムにもとづく「慰安婦」論の陥穽を論じたい。  上野千鶴子による「慰安婦」論の特徴は次の3点に要約できる。それは、朴裕河『帝国の慰安婦』に共通する特徴である。
 ①「慰安婦」の存在は単一ではなく多様である(「文書史料中心主義」批判、「モデル被害者像」批判および「慰安婦=非公娼」論批判)  ②ナショナリズムを内包する思想と運動も、「慰安婦」問題の解決を阻んできた(挺対協や尹貞玉批判。家父長制パラダイムの特権化。国家責任論批判)  ③「慰安婦」問題は、日本だけの問題ではない(旧帝国間の共通性。基地村・朝鮮戦争下の「慰安婦」。国際法・国連勧告の軽視)
 ①について、上野は強制性をめぐる論争において「文書史料の不在を問題にするべきだ」と吉見義明を批判した。それに対し吉見は、上野が強制性や日本軍の「関与」を示す史料がないとしていることがそもそも誤りであると反論している(『ナショナリズムと「慰安婦」問題』、日本の戦争責任資料センター、2003年)。  また上野は、『ナショナリズムとジェンダー』(岩波書店、2012年新版)のなかで、ジェンダー・ヒストリーが打ち出した方法論を呈示し、歴史の「視角」こそが重要であるとする。だが、その立場に立つならば男性中心主義または官僚主義的な「視角」こそが問われるべきではないか。吉見が公文書を使っていることをもってジェンダー史に反しているとするのは形式主義であり、内容を問うていない。  そして「モデル被害者」像については、「売春パラダイムとの対抗を強調するあまり……「連行時に処女であり、完全にだまされもしくは暴力でもって拉致され、逃亡や自殺を図ったが阻止された」という「無垢な被害者」像を聞き手の側が作りあげているとする。「女性に純潔を要求する家父長制パラダイムの、それと予期せぬ共犯者になりかねない」と批判している(同上著)。これは、朴裕河も『帝国の慰安婦』で「私たちが望む慰安婦」の姿に過ぎない」とした。  しかし、金富子が指摘しているように朝鮮人「慰安婦」に未成年や「処女」が多かったのは事実であり(金富子「「植民地の慰安婦」こそが実態」文化センター・アリラン連続講座第6回、2015年10月17日レジュメ)、「少女」の被害者像は事実を反映している。また、支援団体はたとえ連行時に成年だったとしても、もと「売春女性」であっても被害者を受け入れてきたし、誰であれ「詐欺・暴行・脅迫・権力濫用、その他一切の強制手段によって」(婦女売買に関する国際条約)性行為を強要されてはならないことも指摘してきた。  さらに、上野は「慰安婦」を「軍隊性奴隷制」と捉えることについて、「「売春」パラダイムとの対抗を強調するあまり、被害者の「任意性」を極力否定しなければならない」。「ここでは「軍隊性奴隷」パラダイムは、韓国の反日ナショナリズムのために動員されている」(同上著)と述べる。  小野沢あかねや吉見義明も指摘しているように、公娼制度は事実上の性奴隷制度であったが、日本軍「慰安婦」制度には公娼制にあったような名目的な「廃業の自由」すらなかった。さらに、婦女売買に関する国際条約において、21歳未満を徴集してはならないとされたが、それが植民地女性には適用されなかったのだ。  なお、挺対協が戦争犯罪としての責任を日本政府が回避したことを批判する文脈において、公娼制度と軍「慰安婦」の違いを強調したことがあったが、それをもって日本人「慰安婦」が「自由意思」だったと認識「しかねない」とするのは論理飛躍である(山下英愛の議論を上野が引用)。  上野や朴の議論は、植民地女性が法の外に置かれていたことへの再審の必要性と犯罪性を問うてきた争点をぼかす役割を果たしている。  ②について、上野は『和解のために』あとがきで、「「国家による公式謝罪と補償」を唯一の解として、国家対国家、民族対民族の対立の構図がつくられたのは、一部は韓国内の女性団体のナショナリズムにも原因がある」とする。「国家による公式謝罪と補償」を「唯一の解」と極端に表現して否定し、争点をぼかすことで日本国がなした組織犯罪への処罰を困難にする。  また、韓国の「慰安婦」研究者である尹貞玉が、松井やよりを「民族に対する理解が足りない」と述べたことについて、「日本のフェミニストはそれぞれの思いと論理……を韓国のフェミニストと完全に共有することは可能でもないし、必要でもない」とする。  植民地女性が法外な被害を受けたことからもわかるように、日本軍「慰安婦」は民族とジェンダー両方にまつわる問題である。そこで尹が問うた「民族」とは何かという考察もなく、切り捨ててしまった。日本の主権者が日本のあり方について具体的に問われている関係性において線を引き、「相手がなぜそう言うのか」を思考することをやめてしまったのである。  なにより『和解のために』は、「慰安婦」の強制性を矮小化し、補償や謝罪は済んでいるかのように自民党・日本政府の見解を代弁して(金富子「「慰安婦」問題と脱植民地主義:歴史修正主義的な和解への抵抗」、『継続する植民地主義とジェンダー』、世織書房、2011年)、国家主導の「和解」を演出している。そして実際に、外交筋や保守論壇においても称賛を受けている(和喜多祐一「今後の日韓関係と歴史認識問題:歴史認識の壁はなぜ生ずるのか」『立法と調査』337号、2013年2月;久保田るり子「朴裕河氏の『和解のために』再読」『外交』外務省23号、2014年1月)。  朴裕河の議論は多くの事実誤認を含んでいるにもかかわらずそれを評価し、和解劇を補強した上野の責任が問われている。  ③について、高橋哲哉が「日本人」として「責任をとる」といったことについて、「帝国主義国家の「原罪」」と名指し、他国と比較することを説く。「例えばキーセン観光についても、アメリカ人やドイツ人の客もいたのに他の国籍の男にも同じよう批判を向けられただろうかと考える。従軍慰安婦運動の中にある韓国ナショナリズムの問題と、それに対する批判を封じて神聖不可侵にしていった日本の運動を見て、これでいいんだろうかという気持ちはありました」(上野千鶴子・加納美紀代「フェミニズムと暴力」、『リブという〈革命〉』、インパクト出版、2003年)。  ここでは、帝国諸国それぞれの罪を問うというよりも、「日本のみが悪い訳ではない」とする相対主義に陥っている。告発する側の「ナショナリズム」に問題があるということによってあたかも自らは普遍の側に、被害者の属する国は特殊の側に置く。  「日本人のフェミニストが日本国の構成員であるところの責任主体として、この「慰安婦」問題という具体的課題にいかに取り組み、それを思想的課題として、実践的課題として、いかに超えていくか」(金富子)という問いが等閑視されているのだ。  日本女性の戦争責任を問う「反省的女性史」について「絶対的な視点」や「戦後的な視点」と言って切り捨て、自らはただなに国民でもない無色透明な「女」であろうとすることは、国民主義の特権にあずかる自らの現実をも見えなくすることだ。 まとめ  日本リベラルにおける「慰安婦」論・朴裕河評価とそこからみる思想の頽廃とは、ナショナリズム批判という衣をかぶって告発者に責任をなすりつけ、日本の戦争犯罪をどう裁くかという問いをぼかすことにある。性被害という傷を世にさらけ出した「慰安婦」サバイバーの告発をうけて、真に過去の克服のためにつなげようとする運動がなされ、社会的な関心が芽生えた。その萌芽を上野千鶴子らはそれらしい言説に押し込めてしおれさせ、人びとに「慰安婦」当事者の声を聞けなくさせてしまった。そして「国家を超える女」といった普遍的な言説や相対主義によって日本の侵略責任・植民地支配責任を問わなくてすむような閾値の設定と現状追認がなされている。右派の否定論のみならず、リベラルによる被害の相対化によって「慰安婦」サバイバーはさらに葬られようとしているのだ。 (李杏理)

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