2015年3月8日日曜日

公開ワークショップ“「帝国の慰安婦」という問いの射程”について

 2015年2月22日、京都市の立命館大学において公開ワークショップ「『日韓の境界を越えて』〜帝国日本への対し方〜」の第2回として、「帝国の慰安婦」という問いの射程が行われ、本記事の筆者も参加してきた。ワークショップの内容については主催者により活字化される可能性もあるので、それを待って論評することにしたい。ここでは『帝国の慰安婦』という書物の受容のされ方に関わると思われるエピソードを紹介したい。

 冒頭のあいさつで司会者の西成彦氏は次のように発言された(私が記憶とメモに基づいて再構成したもの、以下同じ)。
(……)いかなる書物であっても純粋な知的好奇心と一定の礼節を持って受け止めるべきで、その価値をとやかく値踏みする暇があったら、むしろその書物を踏み台にして各自が何を考え、いかなる次の一手を繰り出していくかを追求していくのが読者の務めだと思っている。
まず深刻な性暴力の被害者がカミングアウトして国家犯罪を告発しているという問題を扱った書物について、「純粋な知的好奇心」でうけとめるのが唯一のあるべき読み方なのか? という疑問が浮かぶ。それはむしろ著者である朴裕河氏にとっても不本意なことなのではないだろうか? 西氏の意図がどのようなものであったにせよ、次のことを念のため確認しておきたい。「政治的」であることを避けることができない日本軍「慰安婦」問題を扱った文献について、非政治的であろうとすることもまた、極めて政治的な振る舞いである、と。

 また、なるほど研究者の共同体においては、各研究者が他の研究者の業績を「踏み台」としてさらなる達成を目指すものである。しかし個々の研究成果が一般市民にも開かれているものである以上、ある「書物」が「踏み台」とするに値するものか否かを吟味するのもまた、研究者の務めではないのだろうか? そうした作業を「とやかく値踏み」と否定的に評することであらかじめ封じるのは、開かれた議論のあり方として妥当だとは思えなかった。

 さらに、質疑応答の時間には上野千鶴子氏が『帝国の慰安婦』への好意的評価に対する批判について「あれかこれか、の二者択一に押しやるような言論」だと発言した。しかしながら、『帝国の慰安婦』に対する具体的な批判に向き合うことなくそれを「二者択一に押しやるような言論」として切り捨てることは、それこそ『帝国の慰安婦』を支持するか・しないかの二者択一に押しやることにはならないのだろうか? 日本語版の『帝国の慰安婦』が刊行されてからまだ3ヶ月もたっていない時点で、あたかも同書への批判的な検討を否定するかのような発言が司会者や登壇者からなされたことについては、強い違和感を感じざるを得なかった。

(文責:能川元一)

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